四国路

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2018年 04月 12日

異質な人間を排除する。

自分とは違う、何か異なるものを持っている人間というのは、容易に排除の対象になる。

村八分という言葉がある日本だけに特別なことではない。まわりを見渡せば、そんな事いくらでも転がっている。

生まれが異なることによる排除、言葉が異なることによる排除、病を抱えていることによる排除、見た目の差による排除、能力の差による排除、持っているものの差による排除。

どれも身近にある。

日常のあらゆる場面で、あらゆる排除を目の当たりにし、そしてなんとか自分は排除する側にまわろうとする。

しかし何か条件が変わると、容易に排除される側にまわされる。

その繰り返し。

なぜ、こういう不毛な行為を繰り返すのか。

自分とは何か、ということを知らない、考えたことがない、ということにある。

自分という存在をどれだけ分かっているのか?

自分自身という存在は、自分にとってもっとも身近な存在。

人はあまりに身近なものに対しては、注意を向けなくなる。

当たり前にあるものとして捉えるようになる。

「当たり前」その本来の意味を理解することなく、ただそうあることが普通なんだと考えるようになるということ。

そのあまりに概念的な「普通」という枠からはみ出す異質な事象は、自分の存在に対する理解を脅かし始める。

「そうあることが普通だと思っていたこと!違う。それが普通だと思っていた自分とは何?」

これは、人間がもっとも知りたくないもの。

自分とは何か、という問いへの免疫が少なければ少ないほど、異質なものへの排除欲は高まる。

異質な人間を排除したがる理由は、自分というものを知ることができないことに対する身代わり。

精神的な自立もままならない子どもたちが、容易にイジメに走ってしまうのも、体だけ大きくなった大人の世界でイジメが増え続けるのも、すべては自己への洞察がなさすぎるがゆえ。

この排除の構造に付いて、一つ言えることがある。

排除される人間は、排除する側の人間によって作り出される、ということ。

排除される側に追い込まれた人間は、自分がそうなりたくてなったのではない。

たまたま、そうであっただけ。



by setsuna-0520 | 2018-04-12 18:13


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